究極

2002.11.06

ct-1b珈琲は、人に感動を与えてくれる素敵な飲み物ですよね。

では、その珈琲の“究極の味”ってどんな物なんでしょうか?

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「究極の味創り」そう考えたときに、思い浮かぶのは、やはり、最高の材料を用い

それに見合う、最高の腕を持つ職人が、最高の器具を使い創り上げるもの・・・。

単純に考えても、そんなところでしょう。前は、私もそう考えていました。でも違う。

ある時に気が付いて?しまった。料理なら、勿論、最高の材料を使い、創り上げる一品。

これは、これでよい。「どっちの料理ショー」ではないが、一つ一つこだわりの品を使って

最高の一品を創り上げるのは、有る意味究極と呼んでも構わないはずだ。

でも、本当にそれが究極だろうか?私はこう叫んでしまう。「そんなことは無いはずだ!」

「それだけじゃあ悲しすぎる!」高級、最高の食材を使い、料理を創る。これは、珈琲なら

最高級の生豆を使い、珈琲を創ることと同じような物。じゃあ、最高の豆が揃わなければ

究極の珈琲は出来ない!・・・と言う事になる。そんな事を、どの世界でも、良く耳にする。

料理は勿論だが、例えば、最高の音楽は、最高の環境で、最高の楽器を使い、最高の演奏

者を集める事によってのみ生まれる・・・とか。「てやんでい、べらぼうめ!(江戸っ子?)」

と、声を大にして叫びたい!じゃあ、材料も、器具も、揃わないところで、最高の物は生まれ

ないと言うのかい?「ふざけんな、ふざけんなぁ、ふざけんなあ!」・・・だ。(口が悪いね)

僕なら、全てこう考える。音楽なら、例えば、ある国に、貧しく、それでいて才能がある音楽家

がいたとする。彼は、愛する人に、心を込めた演奏を聴かせたいと思っていた。でも、残念

ながら、楽器を買うお金がなかった。悲しんだ音楽家であったが、彼女と一緒に草原に腰掛

けていた時に、優しい風が吹き、ふと思い立った彼は、側の草を抜き、草笛で愛のメロディー

を奏でた・・・。これが、究極の音楽であると、僕は思う。

料理なら、腕のある料理人の家に、心からおもてなしをしたいと思う、大事な客人が訪れた。

でも、残念なことに、その料理人の家には、ちゃんとした食材も、器具もなかった。でも、

何とかおもてなしをしたい。そう思った料理人は、家の裏のやせ細った畑から、とても貧弱な

野菜を抜き、あり合わせの食材で、精一杯の料理を創った。その野菜は、やせ細っているが

この冬、自分が生き延びるためにと、とって置いた物だ。だが、相手をもてなしたい彼は、命

を削って、相手のために腕を振るった。これこそ、究極の料理ではないだろうか?

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僕の考えは、いつも極端だと、叱られてしまうが、それならそれで良い・・・と、最近は思う。

今、僕の所には、ありがたいことに、最高と呼ばれる生豆が、当たり前のごとく並んでいる。

昔は、たった数キロずつ、しかも、安い豆しか買えなかったし、僕に売ってくれる業者自体

あまりいなかった。ところが、珈琲の世界で、一目置かれるようになった私の元に、今では

多くの業者が、「こんな最高の物があります。是非、鈴木さんの所で使っていただきたい。」と

頭を下げて、訪れるようになった。店内には、常に500~600キロ位の高級生豆が有るし

どんな最高な物でも、簡単に手にはいるようになった。ありがたいことだ。でも、これだけは

忘れてはいけない。最高の味、究極の味は、材料に頼らず、想いを込めて、命を削ってこそ

生まれるものであると言う事を・・・。

                                    <2002年11月6日>

※誤解の無いように、弁明をしておきますが、僕は、「どっちの料理ショー」も大好きで、良く
見ています。特に、三宅さんの奥行きのある演技?(お人柄)が大好きなんですっ!!
(コーヒーも飲んで頂いたことがあるし、ちゃんと言い訳しておかないとね・・・)